札幌市。難病治療・遠隔治療・遠隔除霊・占いで体のお悩み解決サポート

 

このお話しは、最近、私自身に起きた不思議現象のひとつである。
人間対人間ならよくある話しだが、命や、意志を持たないはずのぬいぐるみが、人間同様の、いやそれ以上の行動を見せてくれたことへの驚きである。

その不思議な現象はこうして起きたのである。深夜3時すぎであったが、寝室のドアが、コンコンと鳴ったのである。
かなり音が大きかったので、すぐ目がさめた。誰か来たな!、霊の仕業かなと、思いつつドアを開けたのである。
ところがどうだろう、入口に立っていたのは、白い40cm位のかわいい、兎だったのである。これにはビックリした。よく見ると、ぬいぐるみであった。
ところが、言葉を話しだしたのである。しかも聞いたことのない、宇宙語とでも表現した方が良い感じの発声だった。
ところが女性のその声は、すごくきれいで、美しかったのである。
ビックリしたのは、同時通訳のように内容が正しく理解された事である。その内容とは、次の様に耳で確認ができた。

『お母さんが、すごく泣いて、苦しんでいます。助けてあげてください。どうか、お願いです。助けてあげてください。本当にお願いします。』
と言うものであった。

本人の意志で話していることが、すぐわかった。母が乗り移ったものではないことがすぐに分った。私は言った。
『わかったよ。かならず助けてあげるからね。約束するからね』と。

すると、うさぎは、
『ありがとうございます。かならずね。約束ね。帰ります。さようなら。』
と、いって姿を消した。

うさぎの全身からは、光が走っていた。電磁波のようだった。
ぬいぐるみが、しゃべるなんて考えたこともないだけに、しばらく興奮が止まらなかった。
人間や生きた者の霊ならいざ知らず、ぬいぐるみに、意志があることを知らされたのには、ただただ驚くばかりであった。
 

1. Aさんに合気道の件で、打合せのための『メール』を打っていた。
途中でAさんから、メールが来たが、打ち終わってから見ようと決めて、最後まで打ち続けた。
ところが、Aさんからのメール内容を見てビックリ。
私が時間をかけて打った、『メール』に対する返事だったのである。
つまり、私の意志が、文書化されて先きに届いていたのである。

2. 息子に、食事をしようと電話を入れた。
ところが、その電話が東京の女友達の携帯電話につながったのである。
彼女から何んで番号が分かったのかと、とんでもなく、誤解された。
説明して誤解は、解決されたが、何んでこのような現象が起きたのだろうか?
私は全くかけていないのだ。
全ての、結果はふたりの関係にあり、後日分かることには、なったが・・・。
それにしても現象を起こした携帯は不思議である。

3. 腕や足を切断される事になっていた、『難病・壊疽(エソ)』。
A女さんの話しである。直接以外は、気功による携帯電話で、遠隔治療を行っていた。
すると、Bさんが、何んでこんなに携帯電話が、熱くなるんだろうねと、周囲に言い出した。
たまに、そのような事が起きることがあるが、毎度起きるとのことで、当方がビックリ。
つまりはBさんが立派なのである。受け入れが違うのである。
むろん、そのようなBさんであるから、腕と足は切断しないですんだ。
病院は文句たらたら・・・。
『壊疽(エソ)』によって、携帯電話の不思議が示された実例である。
 
 
「気」 をどのように応用し、活用させるかに依って「気」の不思議を更に強く実感することができます。「気」と想念による合体の「エネルギー」を果たして皆さん はどこまでお知りだろうか。又、どこまで体験したことがあるだろうか。。。これから書く事は今まで私が実際に体験した出来事です。数多くありますので毎月少 しずつ更新してゆくことに致します。信じる信じないは別として、偽りなく私の実体験です。

私は18才の時に勤めていた市役所を辞め、僧侶の試験を受け念願の僧侶になりました。理由は「神と仏に会う為」でした。 僧侶になれば会えると思ったのです。 総本山から末寺に派遣され、来る日も来る日もお葬式とお骨の整理、除霊などをこなしました。夜、一人で地下に入りお骨の整理をしていると、しくしくと泣く 女性が出てきたりと、俗に言う「霊」とは遭遇しましたが、「神や仏」に会う事は叶いませんでした。純粋に真剣にどんなに願っても神、仏は姿を見せてはくれず、 そのうち、坊主の世界の出世主義といいましょうか、周りの坊主たちを見ていても私の様な考えで僧侶になっている人間はいませんでした。とにかく早くどこかの 住職に納まりたい。どこかのお寺の住職の娘と結婚したい。とそういう人間ばかりでした。私は僧侶の世界に嫌気がさし、キッパリ辞めてしまいました。

◆母の想念(生霊)が私の所に出現した

私は僧侶を辞めた事を北海道の父母に言えませんでした。行くあても無く、北海道にも帰れなかった私は 、埼玉県の草加市のダンボール工場で1年半ほど働きまし た。六畳一間のアパートにせんべい布団一枚の生活でした。ある春の朝、5時頃です。寝ていると、玄関のドアをコンコンコンコン!!とすごい勢いで誰かが叩き ました。こんな朝早くに誰だろうと思いながらドアを開けると、なんと母が入ってきたのです。目がこぼれ落ちる程腫れている母に

「母さん、その目、どうしたの?なんで俺の居場所がわかったの!?」

と聞くと母は

「お前の事を心配して心配して、、、親だものお前の居場所くらいわかるんだよ。もうとにかくすぐに帰っておいで」

と涙を流しました。目をこんなに腫れる程泣いて心配して探し出してくれた母の手を握って私も泣きました。そして母と一緒に北海道へ帰る事にしたのです。 すぐに帰る準備を始めようと母と二人で立ち上がると、母が壁に寄りかかる様なしぐさをして壁の中にスーッと消えてしまいました。 今まで握っていた、母の手の肉感は確かに残っています。私はとっさに母の身に何かあったと思いました。すぐにアパートをひきはらい、工場長に連絡を取り、 その日のうちに私は北海道釧路町の実家に戻りました。実家に帰ると、母は今朝方、私のアパートに来た時と同じように目をこぼれ落ちる程腫らしており、私の姿 を見るなり抱きついて泣き出しました。

「どれほど心配したか。」

と泣く母を見て、私の事を心配するあまり母の想念が私を探し出し、生霊という形で現れたのだとわかりました。 仏壇には、私の写真が置いてありました。私が自殺をしたと母は思っていたのです。 子を想う親の愛の深さは、本当に凄いと今でも忘れる事が出来ず、思い出す度に胸が苦しくなってきます。「母は偉大なり。。。」が偽らざる実感です。
 
 
その朝は、新雪が降ったばかりで、辺り一面は雪化粧の白一色だった。昭和47年1月中旬、時間は午前5時頃。
アパートの周辺は、建物が何も無く、広大な野原状態になっていた。安いアパートの為、とても寒かった。
僧侶を辞め、ダンボール工場も辞め、釧路の実家に一時戻った後、再三再四見せられる夢に人生を掛けて、第二の佛道修業のつもりで、有り金8万円足らずを持っ て1ヶ月前の昭和46年12月20日頃に札幌に来たばかりであった。
29才4ヶ月でまもなく30才になろうとしていた。神・仏の実在を確認するための私の人生であるから引越しは私にとっては、小さな問題にすぎなかった。 朝5時のわりには、外は明るかった。あっちこっちの外灯が新雪によく反射していて雪が輝いて見えた。寒さと、空腹で寝ることも出来ず、いつしか、トイレの窓 から外を眺めていた。寒いと感じることも忘れて、ただ茫然と外を見ていた。ここ一週間、何も食べていないに等しい毎日だった。
せいぜい食べた物といえば、干芋ぐらいなもので、灯油があるうちはお湯の中に干芋を入れ、膨らませて食べていたが、その灯油も無くなりお金は完全に底をつき、 もう何も出来ない状況にあった。

『ここで死ぬのか。。。』

いや、そんなはずはない。やるべきことは自分の中ではやった。でも、もう限界だ。死ぬのはいいとしても、

『神・仏の確認をできないままで死ぬのは犬死にだな。。。このことだけは、なんとしても解決したいな』

と考え込んでいた。寒いトイレの中で、そんなことばかり考え涙を流していた。

『いいんだ、俺は金儲けの為や、仕事をする為に札幌に来たんじゃない。本物の神様にさえ会えれば、役目は終わった事になるんだから。。。』

とただ、ただ、己に言い聞かせるしかなかった。

『あとは潔く死ぬだけだ。。。』

決意は少しずつ固まっていった。しかし何故死んだのかと言う内容の遺書だけは自分の血で書いて、と思った。

『神や仏にダマサレるな。実在はしないのだから。』

という内容にしようと決めた。

『自分の一生の仕事はこの為にあった』

とも付け加えることにした。母や父は泣くだろうな。妹や弟達も泣くだろう。でも俺は何度も見る夢に従い札幌に出て来た。やるべきことはやったから悔いなど ない事ははっきりと書いておこうとも決めた。1月のトイレの中で、決意は不動のものとなった。 ・・・・どれ程の時間トイレにいたのだろうか。。。するとどうだろう、誰かがトイレの窓をコンコンコンと叩くではないか。

『大家だな、うるさいな。こんな早い時間から。』

と考えながら窓から首を出して左右を見たが、人影どころか足跡も無い。新雪だからすぐ分かる事だった。寒いので、トイレから出ようとすると又、 『コン、コン、コン、コン』 と今度は大きな音で叩いて来る。

『なんだろう。』

と思い又、窓から首を出して外を見た。しかし誰もいない。むろん足跡も無い。きっと幻聴だと思いトイレから出ようとすると又、窓を叩く。 今度はもっと大きな音で。窓が壊れると思うほど強く叩くので、いったい何事が起きたのだろうと又、首を出して外を見た。
するとどうだろう。 そこいら一面が、畳位の大きさの布で隙間無く埋め尽くされているではないか。透明状のその布はまるで生き物の様に自由に動き回っていた。
ビックリを通り越し、ただ、唖然として見ているしかなかった。次から次と、まるで大地の底から湧いて来るようであったし、事実、そう見えた。
その雄大さと、荘厳な様は、筆舌には尽くせない。布状の物体は、透明感と共に全部が光輝いていた。 一枚、一枚に命が在り、何かをしようとしている事が見て取れた。
人生で初めてみる光景。すると次の瞬間、無数、無限のその物体は一枚ずつ回転を始めたのだ。
そしてなんとそこにある全部の物体が回転を始め出し、大きな竜巻状の渦と化してしまったのである。大地の底からは、次から次とその物体は湧き続けており、 その規模は壮大無限であった。そして次に驚愕の現象が起きたのだ。
回転しながら天に向かって伸びているのである。空高くどんどんと次から次へと空に昇って いくのである。そして中間で細くなりながら更に天高く昇り、上空へいくや急に拡大を始めたのだ。 大地のさまと、同様の状態が天空にも出来上がっていたのである。
そして、更に更に拡大は続き大空いっぱいに広がってしまった。 大地の方も、それに呼応するかのように拡大を続けていた。

『何故この光景に近所の住民は気付かないのだろう。今にきっと家を飛び出してくるぞ。。。』

と待っていても、誰一人として出てこない。

『何故だ?これほどの奇跡に、見たことのない現象に、気付かないはずはない!』

私は、この凄い現象を見ながら、 『自分の考えは小さい。死ぬのは無駄に終わる』 と思った。 『これぞまさしく待ち望んでいた神の力だ。。。』 と本心より実感したのである。
生き抜いて伝えよう。多くの人々に。と思った。するとどうだろう、これほどの現象を見ているにも関わらず、急に眠気が身体を 包んだのである。首を窓からだしながらである。
私は窓を閉めるのも忘れてトイレを出て布団の中にもぐり込み、死んだように寝入ったのである・・・。 11時頃、誰かが私の肩を叩いて起こそうとしていた。まだ眠い。

『大家だな、うるさいな。』

と思いつつも起きる事が出来ないのだ。すると今度は強く肩を叩き続ける。起きるまで叩く気だと思った。私はうつ伏せに寝ていて、ほとんどまだ寝ながら

『大家さん、どうしたんですか?。。。家賃ならもう少し待ってくれませんか。』

とボソボソと言った。返事をしてくれないので、起き上がり布団の上に座って、更に頭を下げて頼んだ。それでもなんの返答も無いのでそこで初めて目を開き顔を 上げようとすると足が見えた。この真冬の1月なのに素足であった。白い布も見えた。顔を上げてきちんとその人物を見てみるとそこに立っていたのは大家では なかった 。
映画や雑誌では見たことはあるが、まさか自分の目の前にこのような人物が来ようとは。その人物は紛れもなく仙人だった。品のある高貴な風格に純白 の光輝く布のようなものを身体に巻き付けていた。腰には薄墨色の縄のような物もしっかり巻き付いており、下の方にもそれが垂れ下がっていた。

後で分かったのだがその仙人は住吉大明神だった。(住吉大明神とわかるまで実に10年の歳月を要した)右手には、太い、でこぼこした背丈以上はある杖を持っ ていた。
ビックリのあまり声が出なかった。すると仙人が言われた。

『お前は今日救われる。お前の行動力がそれを可能にするだろう。諦めてはいけない。』 と。

彼は私の目をジッと見つめ続けながら何度も何度も死んではならないと念を押した。私が

『わかりました』

と告げると、そのままスーッと窓側に寄っていった。そこで私の目の前で70センチ位だと思うが窓の高さまで突然浮かび上がり、窓をつき抜けて出ていった。 私はその仙人を目で追っていたが、驚くなかれ今度は上空へ急上昇して見えなくなったのである。

果たして、内容は省略しますが、その言葉通りに、その日のうちに私は救われたのである。私を助ける人物が現れたのである。そして、その人物を10年後に今度 は私が助ける事となった。なぜなら、その人物の未来がその時だけはよく見えたのである。私を救ってくれたその人物に10年後の状況を語り、私が貴方を救う事 になるでしょう。
と告げたのである。仏説にある、まさしく『因果応報、10如実相』である。(この文章を書いている時、文字の上を光が走っていた)


 
 
伝説上の動物である「龍神」が、昭和63年3月、午前5時頃の窓に物質化して本当の姿を見せました。 顔を何度も何度も動かして見せました。
そして、ウーッ、ウーッ、と声を出していました。 顔だけでも3.5〜4m位有りました。全長は50〜60m位には及ぶでしょう。 大きなウロコで、青緑がかった色で、金色のマユ、白いキバ、赤い目は光を発していた。 あたり一面が急に明るくなっていった。
これ以外でも、様々な現象がありましたがここでは省きます。
私は、この「龍神」より「如意宝珠」の玉をいただきました。布団を突き抜けて「丸い玉」状のものを左の手の平で受け取りましたが今は、体内に入っています。
左の手は、何度も何度も上下動させられ止まらなかった。 勝手に動いていたのである。
玉は大きくなったり、小さくなったりと生き物のようであった。力を入れてもつぶれなかった。 それ以来「絵」に書いた龍神からは、光が発してきます。
又、龍神が、自分のツメで私のツメを叩くのです。 何度も何度もツメを叩かれたので意を決して「龍拳」と名を改めました。
昭和63年5月頃のことです。パワーがより強くなるのが自分でもよくわかりました。

「柳 龍拳」はこうして世に出ることになりました。
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